第23回 クロコダイル朗読会

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10月7日(土)。 
第23回クロコダイル朗読会「詩の声が聞こえてくる」に出ます。
開場 pm12:30 開演pm1:00(終了pm3:30)
場所 クロコダイル ℡03-3499-5205
料金 2000円 ワンドリンク付き 当日券のみ

出演
水嶋きょうこ 山崎修平 尾久守侑 大木潤子 及川俊哉
松尾真由美 北原千代 江田浩司 石田瑞穂 浜江順子

お時間がありましたら、
お出かけ下さいませ。


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# by matsuo-mayumi | 2017-09-17 11:08 | 朗読会 | Comments(0)

詩と写真【暗いところのきらめきの】

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透きとおって
交わって
直立する花のきらめき
あそこに抒情があるとするなら
かたいものもやわらかくなっていき
そうしたひらがながうるわしく生息して
脱色される訝しさやまがまがしさ
光角の肌理に添い
眺めることだけ
許される
曝していても秘されている
あるいは秘していても曝している
こんな危うい場所だから
しなやかな言語の隊列
霞のように淡くなり
反映されるのはこちらの頸部の沼のほとり
ひどく心もとない決定権をふりかざし
過失に過失をかさねていく
触れていて
触れていない
ただ複数の果実
小さく実る


写真 森美千代  詩 松尾真由美

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# by matsuo-mayumi | 2017-09-13 13:06 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩と写真【まばゆいものの中間点】

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近づこうとしているものの
みどりの光沢に星雲を見定めつつ
境目の華々しい単独を
受けいれる花弁があって
惹かれているのか惹いているのか
その距離が結晶することに
なにかしらの麗しさ
眼裏で感じていく
あそこにひかりがあるのだから
反射と反映または逃亡
硬い甲羅が選ぶとき
やはり仕切りのない窓へ
飛んでいく
翅の機微


写真 森美千代 詩 松尾真由美

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# by matsuo-mayumi | 2017-09-10 22:32 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩作品のみのブログ【ヒメシジミのいろいろ詩日記】

こちらでもブログをしております。詩作品のみ(文字だけ)のブログです。お時間がありましたら、どうぞ。

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# by matsuo-mayumi | 2017-09-09 13:58 | 詩について | Comments(0)

詩と写真【ひとときだけの鋭い花】

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どこか遠くを見つめている
黒い周囲が際立たせる
ほそく鋭い花びらの
決意のような
夢のような
若々しい
潔さ
生身であることを忘れるぐらい
花を担っていることは煩わしいぐらい
発する熱は内包され
下部が重たくなってきて
切り離せない天と地だから
反響だけでは補えない
そのような空費にまみれ
ほのかな火のひとつ
消えていく
無償の
声を


写真 森美千代   詩 松尾真由美

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# by matsuo-mayumi | 2017-09-08 19:51 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩と写真【交差の白の中点から】

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しめやかな
声がとどまる
巣の痕跡
黒くしずかな波の上で
乾きすぎた蔓は羽根のように羽根と交わり
遠いところにある言葉たち
結びついて象る頸部の
白い骨は白いゆえ
体温が沈みこむ清廉な窓枠だから
細くもなく太くもなく
円環の方位として
俗世からなるべく離れていけること
望んでいる夜の雲
おだやかな交差にまかせ
涙にならない涙が硝子の光沢を発していて
炎に触れても火傷をしないよう
生疵をおおう包帯のよう
そのように思わせる漂泊に
接せられれば
孵化はすぐそこ
中空の
位置の喜悦へ



写真 森美千代 詩 松尾真由美

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# by matsuo-mayumi | 2017-09-06 14:40 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩と写真【うごめく残像、白い花火と】

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どことなく騒がしい

取りとめのない

雲の流れが

耳許を巡っていき

青い空から夜に逸れる

その一瞬の転換に追いついてはいないのだけれど

扉をあければ次第にふくらむ残像のごときもの

問いに問いを加えていって

出てくる答えに不足があって

なお問いをつづけていく

こんな不毛な波動のうえで

震えることすら無意味な動き

絡めとられているのだった

拭えない汚れのような

切断された幹の紋様

いつまでも張りつきつつ

亡霊の足を確かめ

真夏の天を

仰いでみれば

あれは白い花火

広がって消えていき

触れえないことの慰め

さらに広がって消えていき

ふわふわと燃える花びら

溶けてしまう

雪のごとく

いずれ全てが

失われる



写真 森美千代 詩 松尾真由美


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# by matsuo-mayumi | 2017-08-29 15:37 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

アルベルト・ジャコメッティ展

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アルベルト・ジャコメッティの作品は、存在を限界まで削ぎ落としつつ、存在を限界まで主張するという逆説を孕むゆえに、さまざまの社会を規定する文化的構造の一切を乗り越えて、人間の運命を表現するという次元に到達している。ジャコメッティはこの運命の中心にわれわれ人間を据えたのだ。(オリヴィエ・キャプラン)

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新国立美術館のアルベルト・ジャコメッティ展に行ってまいりました。
こんなにたくさんのジャコメッティ作品を観ることができるなんて、
思ってもいなかった。
写真が許されたのは「チェース・マンハッタン銀行のプロジェクト」
ジャコメッティ後期の大作たちです。

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人はコップをあたかもそれが消失し・・・・・・再び現われ・・・・・・
消失し・・・・・・・・再び現われるかのように見るわけだ・・・・・・・・
いいかえるとコップはまさしく常に存在と虚無の間にあるわけだ。
(アルベルト・ジャコメッティ)

何もかもがそうかもしれないと思わせる。


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もっと先まで行くこと。すべてをやり直すこと。
彫刻、デッサン、書くこと。
何物にも拠らない絶対知に一人立ちしている仕事ーー詩。
ヘラクレイトス
ヘーゲル
河は下りはしても、同じ河を二度下ることはしないものだ。

(アルベルト・ジャコメッティ「もっと先まで・・・・」より)

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# by matsuo-mayumi | 2017-08-26 12:19 | 日々の感触 | Comments(0)

「イリプス」Ⅱnd 22号(澪標)

簡単に目次を紹介します。

詩1 中本道代 新城兵一 松尾真由美 高橋秀明 松川穂波 

   竹内英典

評論 たかとう匡子

2 八重洋一郎 野田かおり 今野和代 冨上芳秀 渡辺めぐみ 

たかとう匡子 永井章子

俳句 出口善子

短歌 彦坂美喜子


2016年現代詩セミナーin神戸

藤井貞和氏「新しい文学(視)像を求めて」を受けて

シンポジウム報告 パネラー藤井貞和 京谷裕彰 松尾省三 

司会たかとう匡子


小説 定道明 後藤みな子 岩男進

論考 細見和之

詩3 中堂けいこ 作田敎子 木村透子 中塚鞠子 白野小百利

   神田さよ 高橋冨美子 松村信人

連載評論 中塚鞠子 倉橋健一

エッセイ 正塚晴康 倉本修

詩4 岸田裕史 上坂京子 橋本和子 諸行響 倉橋健一

書評 水田恭平 たかとう匡子 藤富保男


今回はたかとう匡子氏の評論と細見和之氏の論考を紹介します。


*たかとう匡子氏の評論は女性詩人について書き続けている。「井坂洋子について書き終えてみると、つづいて、抜き差しならないかたちで浮かびあがってきたのが伊藤比呂美である。」として、今号の表題は「伊藤比呂美―型破りの文体、魅力あるナンセンス」。伊藤比呂美のラジカルさの徹底を、句読点の効果や、饒舌の話体、軽み、時代へのアイロニー、ナンセンスといったいろんな表現法で言葉をくさりのようにつなぎ、現在(現実)はみごとなこしらえものとしての物語を完結する。その時点において、吉本(隆明)の言葉を借りれば喩としての意味を持つ、その機能をはたす。とする。「ナンセンスという言葉を使ったが、自信があってのことではない」と記しているが、伊藤比呂美のもつ規制性を潰滅させてしまうようなパワーは(規制のセンスにノーを突きつけるゆえに)ナンセンスにも通じていくと思われた。


*細見和之氏の論考は「アドルノ/ツェラン 往復書簡19601968(下) ヨアヒム・ゼング編/細見和之訳」

ツェラン研究者ヨアヒム・ゼングが編集して、ロルフ・ティーデマンが編集発行している『フランフルター・アドルノ・ブレッター』第八巻に掲載されているものを細見氏が新訳し、丁寧に注記を付してくれている。なので、アドルノとツェランの関係を知らない者にも二人の間の密度ある雰囲気が手紙(書簡)というかたちで十全に伝わってきます。とくにツェランの書簡は文学を通じての親密性からか、暗示的な文章が多く、注記がなければ他者には分からないようなところが多々あって、それだけお互いの了解事項によって支えられた交流であったように思えます。つねに危機意識の只中にいて、つねに魂の震えのようなものを文字から発するツェランは書簡でも同じ様態を表しますが、アドルノの著作を読み込んでいたことからも信頼の大きさがうかがえて、また、アドルノのツェランの詩(芸術)への理解の深さもまったく凡庸ではないことにも驚かされます。だからこそ、ツェランはアドルノの自分への論考を期待する。この論考の最後に付録として、ツェランの抒情詩について書いたアドルノの批評がありましたので全文引用します。


付録 ツェランについてのメモ書き アドルノ

『美の理論』「アドルノ『美の理論・補遺』大久保健治訳、河出書房新社」


 芸術作品を経験的現実に対して気密状態に置くことが、秘教的な文学においては、明瞭な網領となった。優れた性質をそなえたその形象のひとつひとつを前にするならーー念頭にあるのはツェランである。実際にそれがどの程度秘教的であるかと問うことは許されているだろう。ペーター・ソンディの注釈によれば、そういう形象の閉鎖性は理解不可能性を意味していない。そうではなくて、秘教的な詩と社会的なさまざまな契機の連関が想定されるべきなのだ。高度に産業化された社会のもつ統合力によってその成員のなかで統合されている物象化された意識は、その素材内容や情報価値と呼ばれるもののゆえに、詩における本質的なものを受け取ることができない。そもそも人々がいまなお芸術的な達成をかろうじて得ることができるのは、擬似的な科学がコミュニケーションと呼んでいるものに一撃をくわえる、ショックをつうじてのみである。芸術の側としては、それが完全無欠でいられるのは唯一、コミュニケーションに関与しない場合なのだ。もちろん、秘教的な振る舞いを直接的に動機づけているのは、創作されたものを素材内容や種々の意図から切り離そうとする、増大する強制的な力である。この強制的な力は、省察の領域から文学の領域に波及してきたものである。文学は、自分がそのために存在している当のものを、自分の支配権に取り込もうと努めているのであって、それは同時に、文学の内在的な運動法則に適合してもいる。

秘教的な文学という構想はユーゲント様式の時代に懐胎し、秘教的な文学はそこで力を発揮していた様式意志という概念といくらかのものを共有している。したがって、秘教的な文学はつぎのような文学と見なされるかもしれない。すなわち、通常は歴史をつうじてはじめて作りあげられたものとして文学から現われ出てくるものを、自分自身の内部から生み出そうとしている文学である。そこには、意図を強調された内容に転じようとする、妄想的な契機もそなわっている。以前に芸術において、意図的に目指されることなしに生じていたかもしれないことが、秘教的な文学においては主題化され、文学それ自体によって扱われているのである。そのかぎりにおいて、ヴァレリーの言う、芸術作品の創造とその創造過程に対する省察のあいだの相互作用は、すでにマラルメにおいて先行的になされている。芸術に疎遠なものいっさいを放棄する芸術というユートピアのゆえに、マラルメは非政治的だったのであり、だからこそきわめて保守的だったのだ。とはいえ彼は、こんにち保守的な人びとがこぞって口にするもったいぶったお説教を拒絶して、政治的な対極に位置するダダイズムと接点を持っていた。実際、両者を結ぶ文学史的中間項も存在しているのである。マラルメ以来、80年を越えるその歴史のなかで、秘教的な文学はその姿を変えてきたのであって、それはまた、社会の持つ傾向に対する反応でもあった。すなわち、象牙の塔といった決まり文句では、窓なき形象を扱うことはできないのだ。美しい詩句のため、あるいは完璧な複合文のために、世界は創造されたのだと説く、あの芸術宗教の、視野の狭い、自暴自棄な横溢に、秘教的な文学は出発点においては付き纏われていた。同時代のドイツの、抒情詩の秘教的な文学のもっとも重要な代表者パウル・ツェランにおいては、秘教的なもののもつ真理内容がその向きを反転させている。その抒情詩は、経験に対する芸術の恥じらいとともに、その手を擦り抜ける苦悩を昇華してしまうことへの芸術の恥じらいによって、すみずみまで浸透されている。ツェランの詩は、言語に絶した恐怖を、沈黙をつうじて語ろうとする。その真理内容自体がある否定的なものとなっているのだ。彼の詩は、人間のうちの見捨てられた人びとよりもさらに下方に位置する言語、それどころかあらゆる有機的なものよりもさらに下方に位置する言語、石や星といった死せるものの言語を模倣するのである。有機的なものはその最後の残滓にいたるまで除去されている。その抒情詩はアウラなき抒情詩であると指摘してベンヤミンがボードレールに即して描き出した事態が、その真相に達しているのだ。ツェランが徹底して行使している際限のない秘儀性は、彼の力の源となっている。命なきものの言葉が、あらゆる意味を喪失した死に対する、最後の慰めとなるのだ。無機的なものの移行は素材のモチーフに即して追跡されうるだけではない。密封された形象において、恐怖から沈黙にまでいたる奇跡を再構成することも可能なのだ。カフカが表現主義の絵画とともに行なったことと遠くで呼応しながら、ツェランは、風景を無機的なものに近づける対象化という手続きを、言語の過程に移しかえているのである。


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# by matsuo-mayumi | 2017-08-21 18:05 | 詩について | Comments(0)

詩と写真【深いみどりと波動と出会いと】

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いくえにも

屹立する

その姿のしなやかなところを夢見て

けれどもふたしかで曖昧な潜水のごとく

透けてしまうから

触れられない

胸の奥底

あくまでの

白として

色づけはおこなえずに

こんな不毛と窓がかさなり

かたい殻の貝のいくつか

産み落とされていくのだった

吸いこんだものを核にして作られる

そのようなものの理解をすこしは望んで

蓄えられた果実を吐きだすまでの

みずみずしい時間の網が

欺瞞や誤謬をすくいとって

深いみどりの地のほうへ

伝えていければ

かすかに

善と悪の隔て

波動として

生成する




写真 森美千代 詩 松尾真由美


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# by matsuo-mayumi | 2017-08-18 16:25 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)