ぷろ☆ぷらライブvol.1『中心温度』朗読:槇原翼+日疋士郎

ぷろ☆ぷらライブvol.1『中心温度』
詩・小説・構成・演出:日疋士郎/協力:川名千秋/於:西荻窪 アトリエ・ハコ

e0349092_22223165.jpg

7月21日、西荻窪のアトリエ・ハコにて朗読『中心温度』を聴く。
ぷろじぇくと☆ぷらねっと代表の日疋士郎さんが、
今回はお芝居ではなく朗読会を行ないました。
舞台として音響を使わず、
観客との距離を縮めたいという希望もあったとのこと。

e0349092_22223201.jpg

役者でもある二人の声は通りやすく聴きやすく、
観客が厭きないように構成も練られていて、
聴かせることに意識的で、
普通の詩人にはできないライブを楽しませてもらいました。
私が選考委員をしている現代詩賞で最優秀賞を受賞した作品「遺書」などは、
本人が朗読するとよい良いという印象を持つ。

次回は8月5日 アトリエ・ハコにて、
語り・身体表現の川名千秋さんとのライブです。

[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-23 11:11 | 詩について | Comments(0)

詩と写真【暗く明るい混在の】

e0349092_10245258.jpg


そうして
後ろも前もわからない
混じりあってしまったものを
移りゆくひかりの部位から
あてどなく選別する
希求の形があるとして
小舟にのせるさまざまな紙片の硬度を計るように
夜の黒と実の赤を見比べて並べるように
そこにある空間をもてあまし
擬態なのかもしれなかった
かさなる言葉とふくらむ音と
間隙のあるところ
あわく堆積していく
草と貝の融合を
ひそやかに留めようと
梅雨の季節の湿度に絡める
ゆるやかに障壁は溶けこんで
猶予なのか停滞なのか
定まらない身振りのまま
統べられていく
厚みのある膜
きっと
どこかで
起きあがる


写真 森美千代 詩 松尾真由美


[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-21 10:30 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

午後7時15分の空

e0349092_19525324.jpg


窓から光が入ってきて、
写真を撮ることを思いつく。

e0349092_19525463.jpg


珍しく飛行機が飛んでくる。
PM7:15。陽が長くなってます。

[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-19 19:46 | 日々の感触 | Comments(0)

劉暁波詩集『牢屋の鼠』田島安江・馬麗 訳・編(書肆侃々房)

e0349092_20214034.jpg


中国の著名人権活動家の劉暁波(リュウ・シャオボ)が亡くなった。2010年、獄中でノーベル平和賞を受賞。肝臓がんということだが、骨と皮だけで身動き一つできず寝台に横たわった姿がニュース映像で流れたとき、あまりの凄惨さと「なぜ、こうなってしまったのか」という忸怩たる思いが混じり合って、強い記憶としてこの出来事が忘れられなくなった人も多いのではないだろうか。劉氏は海外での治療を望んだが、出国は許されなかった。

劉暁波は1989年の天安門事件以来、中国の民主化運動に関わり、中国共産党の一党独裁の廃止を求めた2008年の「08憲章」を起草して国家政権転覆扇動罪で逮捕され、錦州の刑務所で服役、妻の劉霞も自宅で事実上の軟禁状態に置かれていた。劉氏は1955年、吉林省長春市生まれ。1969年から1973年まで両親が文化大革命で下放され、内モンゴルに住む。北京師範大学文学部で教鞭をとり、1988年文芸学博士号を取得し、オスロ大学(ノルウェー)やハワイ大学、コロンビア大学(米国)などでも授業をしている。民主化運動に参加したため全ての公職を失うが、文筆活動、人権運動、民主運動に従事しつづけ、フリーライターとして大量の時事評論や学術論文を発表。日本語訳著書には『現代中国知識人批判』(徳間書店)『天安門事件から「08憲章」へ』(藤原書店)『最後の審判を生き延びてー劉暁波文集』(岩波書店)などがあり、思想家としての評価はあるが、その劉氏が妻との共著という形で1冊の詩集を上梓していることはあまり世間には知られていないかもしれない。

2000年に上梓されたその詩集『劉暁波劉霞詩選』を劉暁波一人の詩集として纏められた『牢屋の鼠』(書肆侃々房)が出版されたのは2014年。翻訳・編集・出版を担う田島安江氏の熱意によるものだ。田島氏によれば、現地の詩人たちでも劉暁波の詩に触れておらず、ようやく見つけた香港で出版されたこの1冊の版権はまるで投げ与えられるかのようだったという。米国ペンクラブは「戦慄的な抒情と慟哭の詩―ノーベル平和賞の劉暁波」という名目で2009年に獄中の劉暁波に「バーバラ・ゴールド・スミス著作の自由賞」を授与。そうした評価に価しない待遇になっていることの現実がこうしたことからでも分かる。ともかくは田島氏の努力によって「暗喩と悲しみに閉じ込められた詩人」劉暁波の詩が日本では読める。また、いまも上海などでは若い詩人でも韻を踏む定型詩を詠む詩人が圧倒的に多い中で、自由律の現代詩を書いていた劉暁波はそれだけで前衛的な詩人でもあった。『牢屋の鼠』では、妻・霞氏への愛を歌う詩、文学的素養が溢れている詩、思想に裏打ちされた詩などがあるが、詩によって語りかける、そんな手法で描かれる世界は偏狭ではない他人への深い親愛を感じさせる。妻・霞氏への愛情溢れる作品がもっとも多く心にひびくが、対象はカフカ、カント、ウィトゲンシュタイン、王小波、マルグリット・デュラス、エミリー・ブロンテ、シモーヌ・ヴェイユ、ツベターエワなど作品から生き方を抽出して、そこで人として対峙していく。研究者であるから読み込んでいるのは当然のこととしても、会ったことのない文学者、思想家、詩人たちを自分の身近に引きよせる力は、会ったことのない民衆とともに戦うことのできる素養そのものでもあって、劉暁波の精神を詩からも読み取ることができる。


カフカ、わたしはあなたに伝えたい

晴れわたった青い空の下

あなたを思い出すことは

まちがいなく一種の冒涜に違いない

しかし、わたしは明らかに青空の下でも

青白い半月の下でも

あなたを見た

あなたの痛みつけられた目

(略)

世界も人もただ一つの「K」だ

彼が処刑される時がいつなのか知らされていない

城から出した命令がどこからくるのか

裁判に理由も証拠も必要ない

「聖書」の前書きのようだ

神が「光が必要だ」と言い

そうして光がやってくる

(略)

カフカ、わたしはあなたを信じることができない

あなたは一対のものを持っている

すべてを隠してしまう鏡の目は

永遠に暗黒の隅に身を隠す

(後略)

(「カフカ、あなたに伝えたいーカフカが大好きな妻へ」部分)


 あなたが書いた言葉の間には

 ある種の得がたい荒唐があり

猫が石を捕らえるときの想像に似ている

一部の知恵者がはしごを借りて

なんとか形而上的頂点に這い上がる

あなたは腕白な子どものように

はしごを撤去したあとは

無言のまま

雲の上の蟻の群れを仰ぎ見る

(「ウィトゲンシュタインの肖像―哲学のわからない妻へ」部分)


君は僕である

ちょうど冬にあたるこの季節が

君の寒さによってさらに明るむ

風が骨の透き間に潜り込み僕は目覚める


君は僕のすべてをみじめにする

ただひとつ残る

寒さが僕と向き合う

凍りついた空が

君の囚人への挨拶である

僕は冬から逃れる術がない

君はすべての隙間から僕を探し出す

凍えてかじかむ耳は

敏感になり

ほんのすこしの音の響きも聞き逃さない


丸裸になった僕が

冬と一つに溶け合う

     (「君は僕であるか・・・・・・――霞へ」全篇)


会えない二人が寒さによって一体となっているように思える。「君はすべての隙間から僕を探し出す」ことは「僕はすべての隙間から君を探し出す」ことでもある。幽閉され、いっそう鋭く霞の気配を感じていこうとする想いの真摯さに胸を打たれるが、ここでは状況に対する嘆きよりもその現実を見据えての詩の発想がある。妻への愛はもちろんのこと、劉暁波は人と人とのつながりが生の靱帯であるという強い自覚のもとにいた人なのかもしれないなどと、私は想像するしかないのだが・・・・・・・。


[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-18 20:28 | 詩について | Comments(0)

詩と写真【異和から花が脱するとき】

e0349092_18135048.jpg


埋もれそうで
埋もれない
花の塊あるいは種の巣
覆いかぶさる茫洋とした布の圧から
反響だろうか
抗いか
より鮮やかになっていく
豊穣の証しのごとく
脈動が佇立する
秘めやかに隠されていたものの
花びらの渇きのなかでの柔らかな襞のうごめきを
感じてしまったなら留まることはできなくて
きっともっと離れていく
紅のほのかと
あおみどり
通じあうふりはもう
やめたほうがいいのでしょう
浮きあがって浮きあがって
萎れていても花の自由
貝の硬さの足跡だけ
残してあてなく
放たれる


写真 森美千代 詩 松尾真由美
詩集『花章−ディヴェルティメント』より
[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-15 18:10 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩と写真【隔絶され循環するもの】

e0349092_12502579.jpg


温度が分断されている。一枚のやわらかな雲のへだたりがせり上がり、届くようで届かない、聞こえるようで聞こえない、そんな日録を束ねている像の脈に入りこんで、折りあわせる意味と意義と、見えている鏡の反映。不足あるものの向こう側はつねに果てを抱えていて、そこはかすかな祈りのきらめきもたずさえ、多少の渦を巻き、まるい円周は柔和さを醸しだす。あなたの花たちがひそやかな色をして、どちらにでも向く花頸が霧を膨らませていき、そうして、花びらと花びらとがより密接に重なりあって、抑揚や音感でさやさやと囁きかけるという錯覚を呼び起こしてくれるのだ。うすくなる闇のなかで、表面なのか深奥なのか、ふがいなく惑っていく疑いぶかい根は途切れつつ、身体の状態や気分の持ちかた、そんなささいな結び目でどうにか息を吹きかえし、薄闇からのひかりの屈折にまかせ、ない足許をかたい硝子の土台に替え、いっとき固定と揺籃の両方を手に入れる。少しだけ透きとおる頑健なものの領野があるとして、佇立の姿にあこがれて、根は画面において伸び、しかも、非常に遅滞したまま奥行きを探っていて、距離のある関係性を近づける厚みをほしがり、力のない貪婪さが等式をずらしていく。やがて、不意にこみあげる情景の一端から、あのときの内壁のうごめきが導きだすあからさまな保身の、退行の様態でのしどけない応答だけが残されて、身構えるすべのない子どもの火は消されていき、穴の卑小が不穏な地平をさらに貧しくさせていく。倫理的な枝ほど折れやすく救いがなく、すがすがしい前方を夢見てみても、それだけではあらたな息吹は生まれずに、沼は沼、泉に寄りそうことはなく、濁りは濁りに同調し、やけに穏やかに広まるのだ。しだいに浸潤していくこのような圏域を作ってしまった途上のおののきから、逃れようとしてあなたの花たちが渇いていく。簡単な水を飲まずにうるわしい潤いをほしがって、贅沢なのかもしれない。むずかしいことだったのかもしれない。不協和音ばかりが鼓膜にひびいて耳がいたい。誤読ばかりで目がいたい。鷹揚な雲であってもへだたりはへだたりの突端を持っていて、触れればどこか傷がつき、いらだたしい臓器がさらされ、熱せられて煮沸される脳髄があってもいいと思わせる正午の丘。のぼるように血痕と蜃気楼を無差別に混じりあわせ、近づいては遠ざかるその混濁の陰影を、涙腺の放縦を、いつまで追いかければいいのだろうか。たどたどしく花びらをかきわけ、解くのではなく、互いの周縁を合わせる所作をのぞんでいけば、ささやかに花芯はひらかれ、蘂はこちらが作り直すしかないのだから、新しい柩の形はゆるい横暴さを許してくれる。花びらはどこまでも柔らかく、半透明な円環をぐるぐるとめぐりすぎ、溺れていく蝶の危惧から、かろうじて、翅を休めることの悦びも感じとって、不思議と欠損を埋めている。追補の景色を生きている。しかし、花びらには腐蝕の痕が充満し、無言であっても、あなたの花たちは痛みを覚えているだろう。枯れる準備をするのだろう。身軽になるために、いままでの記憶の重みを宙に放ち、ひとつひとつの臓器の憔悴をとてもしずかに受け入れて、己の言語を内に秘め、夾雑物から遠のきつつ、途絶えていく旋律をゆるやかな寝床として、横たわって目蓋を閉じ、刻印が光りつづける人為的な書物に潜りこむのだ。晴れやかな解放感に充たされ、あざやかな花火の交点をつかんだことを保存して、骨のようにしなやかな枝を何本も遺していって、靱帯の放物線はおそらく多重化されていき、そうしたものを手渡す所作もおぼつかない想像のうちにあり、受けとめるものの火照りの前で漂流の影をあらわに与えて、あまりにも潔く本能的な幕は下りる。



[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-12 12:52 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩と写真【分断されない脈の霞を】

e0349092_09482146.jpg


こうして
亀裂が浮き上がる
ひとつのものの
無罪と有罪
夏と冬
相似のかたちで裏切ることの
はるかな沼がいさぎよい
誘われるのがその訝しい錆の気配であったとしたら
半身は捨て去って
癒着する
あらたな煩悶
目盛りのような裏と表を
破綻ではなく共振の渦と感じて
あまい日々をやけに延ばし
清算のない明日へ
誰もがみな
加担している



写真 森美千代 詩 松尾真由美
[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-11 09:45 | 写真と詩のコラボレーション | Comments(0)

詩人・粒来哲蔵氏の訃報

詩人の粒来哲蔵さんが亡くなられた。62日に。89歳。茨城県古河市内の病院で死去されたそうですが、古河は粒来さんが住んでいるということで私の記憶に深く刻まれた市名でした。このところ、詩誌「二人」に粒来さんの作品が載っていなかったので、もしかするとお体の調子が良くないんじゃないかと思っていたら、悪い予感があたってしまった。ショックです。粒来さんとのお付き合いは私がまだ詩集も出していない、新人とも呼べない頃に粒来さんの詩誌「鱏」に何度か詩作品を頼まれて、寄稿したことから始まっている。勉強をさせてもらいました。私がH氏賞を受賞したとき、偶然にも粒来さんが現代詩人賞を受賞、授賞式が同じなので、お会いできたこともとても嬉しかった。浮薄なところが全くなく、揺るぎない詩人という印象を持ちました。従弟の粕谷栄市さんとともに散文詩の名手。1960年『舌のある風景』で晩翠賞、1972年『詩集 孤島記』でH氏賞、1977年『望楼』で高見順賞、2002年『島幻記』で現代詩人賞、2012年『蛾を吐く』で読売文学賞と受賞歴も多い詩人です。以前、粒来哲蔵詩集『蛾を吐く』(花神社)について書いたものを再掲します。


e0349092_17462812.jpg


こんなにも厳しいエロスがあったことに驚かざるを得なかった。私にとってエロスとは、単純にいえば、生と死のきわにあって感応する何かであるのだが、そのエロスを越えたエロスの深みを、ひとつひとつの詩の言葉自体の深みとともに粒来哲蔵の詩集『蛾を吐く』(花神社)は表出している。物語詩であることで、語り手が作りだす詩の場を、読者はくっきりとした映像(イメージともいえるだろうか)として共有し、主体と同じ位置にいて主体のまなざしを持つことになる。詩に連れ出される感じである。それには描写の的確さが必須であるのだが、しかし、散文とは違う凝縮度が、そこに語られていないものの重要性を感じさせ、作品から浮き上がる空気感は非常に重たい。簡単に整理できる物事はここでは語られてはいないのだ。そして、簡単に語られるものなど何ほどのものでもないだろう。このように主体はおそらく生も死もあえて整理せずに同値に置き、生の世界と死の世界が通行可能な表象体として呈示され、エロスを越えたエロスの深みとは、そうした表象体上のあるものとあるものとの交感を指す。男や目白や燕や母や少女や蜘蛛、鵜や牛や烏や王など、多種多様な寓意の象徴たちが死を招く様態は、すでに悲哀や愛憎すら越えている感がある。あきらかに主体の投影はこのように成されていて、作者の肉体や精神の痛覚は転換され、生死を越えた受容体としての主体が透けて見えてきて、悲しみや慟哭もこの世界では遠いところにある。


(略)某日、梔子の花の薫香が漂う木の根方に、海風を舐め舐めこの島の黒鼬が憩んでいた。尾の先の房毛までいれてはかれば、優に二尺はある奴だった。目付きの険しさから子持ちの牝と看てとれた。鼬は悠々と空を眺め、花を嗅ぎ、頭を回らして潮騒を嗅いでいた。時折私と目が合ったがそれだけのことだった。だがしかし鼬の本性は私に寸時の余裕も与えてくれはしなかった。鼬の尾はひくひくと動いており、生あくびを嚙み殺した口で足指を嚙みはじめ、下から斜め上に走らせる研ぎすまされた視線は、この後瞬時にして起こり得るだろうある種の寸劇の、血を見る結末を予感させるのに充分だった。

緊張は長く続いた。やがて鼬の胴毛が波うち、そのまま血に擦り続けた。鼬は半ば口を開き、己れが足指を噛みつつ私の目を窺った。と鼬は飛んだ。私の足下をかすめ、一気に梔子の幹に跳びつき駆け上った。鼬は樹上から身をひねるようにして目白の隠れ巣に跳び込み、素早く雛をくわえて地に下り立った。鼬の目が光った。この時まで迂闊にも私は目白の巣の所在を知らなかった。壊れた巣ではもう一つの雛が片羽で巣をかき抱くようにして必死に落下をこらえていた。鼬はそれのあがきを知ると、頭を上げて巣を仰視した。―――その時目白の親鳥が己が身を鼬の鼻面にたたきつけるようにして飛びかかった。親鳥二羽は代る代る鼬の顔面に体当たりを試みた。鼬は後足で立ち上がり、前足で空を掻きむしるようにして目白に爪を立てた。羽が千切れ飛んだ。一羽は腹に一撃をくらって地に落ちた。辛うじて残った一羽は鼬に背肉を割かれたが嘴を鼬の片目に突き立てた。鼬の目から噴き出た赤いものが、目白の腹毛を伝って地にこぼれた。目白はそのまま鼬の目にぶらさがって死んだ――劇は終わった。(略)     (「梔子」部分)


残酷といえば残酷な場面だが、そうしなければならないような、生と死の相剋が描かれている。理不尽だとか怒りとか哀しみとかの感傷はなく、それを受容している主体の冷静で緻密な眼差し。全体を覆うこうした感覚が、激しい情景(母を犯しても少女を喰い殺しても)をまったき生と死の相剋として読者を説得する。このようなエロスの深み。主体の成熟は詩の成熟を呼ぶことの証左であるような詩集『蛾を吐く』。悲惨も悲哀も越えたところに詩はあったのだった。


ご冥福をお祈りいたします。


[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-09 19:25 | 詩について | Comments(0)

詩と写真【薔薇のやわらかな高揚期・花びら】

e0349092_12503788.jpg


深く

いとしい

ゆたかな寝床に

花びらたちはざわめきつつ

この温もりを何としよう

棲みつくことの

罪が香って

ひとひらひとひら

しずかに

そよぐ



写真 森美千代 詩 松尾真由美

*この写真は詩集『花章ーディヴェルティメント』の
表紙と帯に使われております。詩の方は掲載していません。
装幀の中島浩さんが詩集用に変化をつけてくださっているので、
見比べられてみたら、面白いかも。


[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-08 13:16 | Comments(0)

七夕

私の誕生日は7月8日なのですが、
本当の出産予定日は7日でした。難産のため8日に生まれる。
なので、少しだけ7月7日(七夕)に思い入れがあります。
e0349092_10183989.jpg
七夕の伝説は中国から由来したものらしいのですが、
織り姫(琴座のベガと呼ばれる「織女星」)は縫製の仕事を、
彦星(鷲座のアルタイルと呼ばれる「牽牛星」)は農業の仕事を司る星とされていた。

この2つの星が1年に1度、7月7日に天の川を挟んで最も光り輝くことから、
巡り会いの日としてお話が作られる。
夫婦になった二人が一緒にいたいがために仕事をさぼるので、
引き離されたというのはちょっと面白い。

e0349092_10400674.jpg
織り姫にちなんで、
7月7日に機織りや縫製が上達するようにお祈りする風習ができ、
今に到っている。
こんなきらびやかに願いごとを書いて飾って祈るって七夕だけのような。
ベガとアルタイル、
一年に一度の最も輝きあう日。

[PR]
# by matsuo-mayumi | 2017-07-07 10:59 | 日々の感触 | Comments(0)